ふだん着のスコットランド 4章 7

注記:

  • 以下の文章は、大修館書店『英語教育』誌に1995年1月から途中休みもはさんで1998年まで連載したエッセイシリーズ「ふだん着のスコットランド」1996年12月号掲載回をもとに、2002年に加筆したものです。掲載されてから長年が経過しているエッセイなので、特に時事・流行などに関する内容は古くなっており、現在の状況とはかなり違っている場合もありますが、連載当時の内容そのままにしてありますのであらかじめご了承ください。
  • 時事的な話題についてはブログの「スコットランドニュース」などで随時取り上げていますので、そちらも合わせてお読みください。
  • 文中に出てくる「夫」は当時の夫で、現在の夫とは全く関係がありませんので誤解なきようお願いします。

 

4章 ところ変われば・・・

NHS体験記

医療は公共サービス事業

イギリスの国民保健サービス制度( National Health Service、略称NHS)は、日本の国民健康保険制度と名前は似ていても内容はかなり異なる。
日本の健康保険は、まず医療が有料だという考えから出発し、国民は負担軽減のため「公営の保険」に保険料を払って加入する。
イギリスの制度では、医療は学校教育や警察・消防などと同様、公共サービス事業の一つとされる。医者や看護婦は公務員であり、サービスは税金によって大部分まかなわれていて、イギリス国民なら誰でも、そして外国人でも長期滞在者なら、無料で恩恵に預かることができる。

私事になるが、15歳の頃からずっと利き腕である右腕の痛みに悩まされてきた。中学の時医者に見せたら「何ともないよ」と言われたのだが、大学進学・就職と進むうちに痛みはだんだんひどくなり、一日中パソコンを使う仕事につくと、急に悪化した。
これではたまらないとついに医者に相談に行ったのが3年前。以来NHSにはずいぶんとお世話になり、おかげでこのサービスの仕組みも見えてきた。今回はその体験談を披露したい。

社医は診療できません

私の場合、まず駆け込んだのは会社の医務室だった。近くの町のクリニックの医者が社医を兼ねていて、定期的にやって来る。ところが私の腕を調べた社医先生の結論は、「これはきちんと診てもらった方がいいね。君の登録医の診察を受けなさい」だった。

これは、イギリスの医療制度の特徴である一般医登録制のためだ。
国民保健サービスを利用するには、まずGPと呼ばれる医者を一人選んで、その患者として登録しなくてはならない。正式名称はGeneral Practitioner、つまり一般開業医だ。開業医と言ってもNHS制度の一環として無料サービスを提供している点は変わらない。基本的には、医師は自分に登録している患者しか診療しない。社医もそれは同じで、従業員には医師の立場から一般的なアドバイスをするだけだ。何らかの診療が必要だと判断した場合には、「登録しているGPに診てもらいなさい」となる。
要するに、従業員が医院に行くための外出許可を上司からもらう時、「社医が医者に診てもらえと言ったから」と言えば仮病ではないという証明になる、という点が社医の唯一の存在理由なのだ。

何だか面倒くさい制度だと思うかもしれないが、登録制の良いところは、登録医が診療の中心点の機能を果たすことだ。病気になっても怪我をしても、まず相談する相手は自分が登録しているGPである。
一般医という名が示す通りGPは何でも屋で、痛いところが目でも手足でも胸でも、あるいはどこも痛くないが不安で眠れないとか、どうやらおめでたのようだという時でも、まずはとにかく登録医のところに駆け込む。
患者は素人判断でかかる科を選んだりする必要もなく、GPにどこがどのくらい悪いのか、どんな専門にかかる必要があるのかをつきとめてもらうだけなので、実に楽だ。私は当時登録していた医師の診察を受け、筋肉痛を鎮める飲み薬の処方箋をもらって帰った。
イギリスは完全に医薬分業になっていて、医師は直接薬を出さず処方箋を書くだけだ。これを薬局に持っていく。薬の処方は、無料運営が基本の国民保健サービス制度の中で数少ない有料サービスだ。
私はもらった薬を飲み始めたが、痛みは治まる様子もない。それでも薬がなくなるまでは飲み続けることにした。今いる家に引っ越す直前のことだ。

カルテも一緒に引越し

引っ越しのため今までの医者にかかることができなくなった場合、日本だと治療も一からやり直しになる。しかし登録医制度はこういう時に長所を発揮する。なにしろ、引っ越しをしてもカルテ (records)がちゃんと患者を追いかけてくるのだ。
患者は引っ越し先で新しい医者に登録する。その際、今までかかっていたGPの氏名と医院の住所を教える。新しい医者は今までの医者に、患者が登録を変更したことを通知し、その患者のカルテの郵送を依頼する。だから医師にとっては、新しく登録したばかりの患者でも、カルテを見ればその患者の一生涯に渡る病歴、現在進行中の治療、常備薬から前回のガン検査・予防接種日まで、全てわかるからやりやすい。患者も安心してまかせられる。
引っ越し後しばらくすると、ひどい胃痛に悩まされるようになった。さっそく登録間もないクリニックを訪ねると、医師は送られてきたカルテを見て、「強い痛み止めを飲んでいるようですね。胃を荒らしてるんでしょう。薬は効いてますか」と言う。いっこうに効いていないようだ、と答えると、「じゃあこの薬はやめて、塗り薬を使いましょう」とのこと。胃薬も処方してもらったが、胃痛は2~3日で消えた。

腕の薬の方は、なくなるまで塗り続けたけれど効果がなかった。再びクリニックに行くと、「では病院の理学診療科に紹介しましょう」と言われた。

紹介で病院へ

風邪や胃痛など単純なことならGPが薬を処方しておしまいだが、もっと専門的な検査や治療が必要な時は、GPが地域の総合病院の専門科に紹介の手紙を書く。域内の病院にはない特殊な専門科にかかる必要があるなら、隣接都市の病院に紹介されることもある。しばらくすると、患者のところへ病院の予約カードが送られてきて、専門家の治療が始まる。治療が終わったら病院からGPに報告書が届く。従ってGP保管のカルテには、GPの診療記録以外に、専門病院での治療記録まで載っているわけだ。

理学診療科(physiotherapy)というのは日本にいた時は聞いたことのなかった分野だが、イギリスでは広く利用されている。リハビリやマッサージ、超音波療法などを行う科だ。
ここで診察を受け、出てきた症名はなんと「テニスひじ」。実はテニスをやらなくてもかかるもので、同じ動きを長時間繰り返すことで筋が炎症を起こす、反復疲労障害の一種なのだそうだ()。タイピスト、コンピュータープログラマー、スーパーのレジ係などに多いという。
数か月治療に通い、痛みは多少和らいだが、病院の夏休み中治療が中断したら元に戻ってしまった。長年放置してきたせいで直りにくいのだろうとのこと。外科にかかって注射を受けた方が良いだろうと言われ、いったんGPに戻って、外科への紹介の手紙を書いてもらった。
外科の診察では、特に何も処置できず、注射も効果がないだろう、理学療法もやめた方がよいとの所見。放っておけばそのうち直るよ、という医師の言葉に腹が立ち、再びGPのところに戻った。

受けた診療に不満がある時は泣き寝入りせず、一般医を介して再診察を要求することが大切だ。GPも普通は協力してくれる。私の登録医が外科に手紙を書き、今度は違う医師の診察を受けた。
今度の先生は積極的で、まずは理学療法を再開し、その効果の程度を見極めてから治療を考えようとのこと。そこでまたまた理学診療科へ。2か月の治療後、「やはり外科治療を試してほしい」という手紙が理学診療科から外科へ届いた。
外科ではまずひじにステロイド注射を受けたが、痛みが消えたのは2週間くらいで、また元通りになってしまった。外科医は「手術をするか、放っておくかのどちらかしか選択肢はない。手術でも直るとは限らないが、どうしたいか」と聞く。放っておくよりはましだろうと、手術を受けることにした。

外来手術は紅茶つき

無料制度であるNHSの最大の問題は慢性の資金不足だ。医師も看護婦も医療機器も、いや病院自体、絶対数が少ない。したがって、診療を受けるまでの待ち時間は日本の感覚では信じられないほど長く、入院日数はやたらと短かい。私の手術は、全身麻酔をかけて行うが半日で帰宅させるという。麻酔の影響が消えるまでの24時間は、誰かに家で面倒を見てもらえるよう手配しておきなさい、という注意書きをもらった。

手術当日は朝8時に病院の「外来手術科」に出頭。受付を済ませると準備室へ。これは入院患者用個室の小型版という感じで、キャスター付きベッドの他、ハンガーとテレビがある。ここで使い捨ての手術衣に着替え、ベッドに寝てテレビを眺めていると、看護婦さんが準備状況のチェックに来た。次に、執刀医から手術の説明を受けた後、可動ベッドごと麻酔室へ運ばれた。
手術が終わり、麻酔から覚めたのは約2時間後。先程の準備室に戻されると看護婦さんがポット入りの紅茶とトーストを持ってきた。食事が終わったら、準備室は午後の手術の患者用に空けなくてはならないので、看護婦さんに着替えを手伝ってもらい、回復室へ移動。ここには朝の手術を受けた患者が他にも集まってくる。
一人一人看護婦さんに呼ばれ、術後の処置について詳しい説明を受けた。こちらとしては、麻酔でまだ頭がぼうっとしているし、腕は痛いし、迎えが来るのを待ってそっちに説明してくれればいいのにと思うのだが、自分のことは自分で責任を持たねばならないらしい。薬と絆創膏と予約カードの入った袋を渡され、あとは迎えを待つばかり。夫の到着と共に、1時に病院を出た。

手術から2か月半たった今は、腕のリハビリ(このためにまた理学診療科に戻った)も終了し、傷口もすっかり目立たなくなった。腕も快調で、手術の甲斐があったと胸をなで下ろしている()。

大修館書店『英語教育』誌1996年1月号に掲載。)

©杉本優 許可なく転載不可

筆者注:

反復疲労障害(RSI)について、くわしく説明したページの立ち上げを企画中。もう少しお待ちを。

後日談:

手術後約3ヶ月の間、まったく腕に痛みがない状態を満喫。高校以来でしょうか。が、その後がいけなかった。本当なら仕事に復帰した時に仕事環境を改善して再発を防ぐべきだったのですが、そんなこととは知らずに会社に戻った私は、1ヶ月でたまった仕事の山と奮闘。さらにその頃からやたらと仕事量が増え始めたこともあって、しばらくすると痛みが徐々に戻ってきました。
それから6年経った今は、右腕は手術の前と同じか、むしろ悪いくらい。おまけに右手をかばって左手を使いすぎたせいか、左腕も同じ症状が出て、日常生活にも不自由が出ているというなかなか情けない状態です。皆さんも、RSIにはくれぐれもご注意を!


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