ふだん着のスコットランド 5章3


注記:

  • 以下の文章は、大修館書店『英語教育』誌に1995年1月から途中休みもはさんで1998年まで連載したエッセイシリーズ「ふだん着のスコットランド」1996年6月号掲載回をもとに、2002年に加筆したものです。掲載されてから長年が経過しているエッセイなので、特に時事・流行などに関する内容は古くなっており、現在の状況とはかなり違っている場合もありますが、連載当時の内容そのままにしてありますのであらかじめご了承ください。
  • 時事的な話題についてはブログの「スコットランドニュース」などで随時取り上げていますので、そちらも合わせてお読みください。
  • 文中に出てくる「夫」は当時の夫で、現在の夫とは全く関係がありませんので誤解なきようお願いします。

 


5章 スコットランド人って何だ?

3. スコットランド人って何だ?

5ヶ国対抗ラグビーの悲劇

1996年初めに行われた5ヶ国対抗ラグビーは、スコットランド人を興奮の渦に巻き込む一大お祭り騒ぎに膨れ上がり、沈痛な悲しみと共に終わった。確かに「5ヶ国対抗」はワールドカップと並ぶラグビー界の呼び物の一つで、日頃ラグビーに関心のない一般庶民にもこれだけはテレビで観ますよという人が多いのだが、今年のスコットランド人の入れ込みぶりは尋常ではなかった。

興奮の原因はスコットランドチームがエディンバラの競技場でグランドスラム(grand slam、全勝優勝)を達成するかもしれないという期待であり、落胆はその美しい夢が破れた——それもただ破れただけなら諦めもつくが、よりによってあのにっくきイングランドに、またしても破られたためだった。

観客席を埋めたタータン帽子姿による「スコットランドの花」の大合唱も、スコットランドラグビーユニオンのパトロンであるアン王女の一家総出の応援も空しく、イングランドは大差で試合に勝ち、その夜のスコットランドはまるで喪に服したようだった。

ちょっと面白かったのは、スコットランドラグビーチームが負けた日の我が夫とその娘の落胆ぶりだった。私の姑はニューカッスル出身のイングランド人なので、夫の体に流れる血の半分はイングランド人だ。その上最初に結婚した相手はイングランド人女性だから、娘に至っては比率ならイングランド人の方が勝っている。その2人がなぜか「イングランド人なんか大っ嫌いだ」と公言して憚らないのである。

どうして「5ヶ国」?

前述の5ヶ国対抗は、日本人の常識で考えると何とも奇妙だ。「5ヶ国もないでしょ、イギリスとフランスとアイルランドだけなのに5ヶ国なんて変じゃない」と思う。そう言えばサッカーでも、日本代表はまだ一度もワールドカップに出場できずにいるのに、イギリスはイングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドと1国で4つもチームを出して予選通過のチャンスを増やしているのはずるい(もっとも前回は4チームとも予選落ちに終わった)。

スコットランドの人口なんて東京都よりも少ないし、国連の認める「国」でもないのに独自チームを出せるなんて、どう見ても不公平だ。

歴史的背景がどうのと言うならオリンピックはどうなの、イギリスで1チームでしょ、オリンピックでできるなら他のスポーツでできないはずがないじゃないか……ごもっともである。実際、ラグビーにだってイギリス全体から選んだチーム「ブリティッシュ・ライオンズ」として戦う国際試合もあるのだ。ふらふらスコットランドになったりイギリスに戻ったり、何だかちょっと都合良すぎるんじゃない、と言われればその通りだ。

スコットランド・イングランド両国が連合し、スコットランド王国が地上から消えてすでに3世紀近く、その間連合王国は産業革命を起こしたり、「日の沈まない」世界帝国を築いたりと活躍した。それなのになぜスコットランド人はいつまでもぐずぐずとスコットランド人であることにこだわり続けるのか?イギリス連合王国人ではなぜいけないのか。

歴史的な民族の起源という点から見れば、スコットランド人はいくつものケルト系民族の混血に、ヴァイキング、ノルマン人等々雑多に放り込んだ産物で、純血のスコットランド人なんて概念を考えるのは難しい。

文化的には逆に、中世の昔からスコットランドには高地地方のゲール語圏と低地地方のスコットランド語圏というはっきり分かれた二つの文化が並存した(スコットランド語というのは日本人にはなじみがないが、英語とは起源を同じくするためよく似ている。ロバート・バーンズの詩はこの言語で書かれている)。この二つの文化を統合した「スコットランド文化」という概念は、じつはウォルター・スコットあたりの時代に端を発する発想で、比較的新しいものだ。

国家ベースでのスコットランド人という枠組みがすでになく、人種的スコットランド人とか文化面でのスコットランド人という概念もあやしいなら、スコットランド人は何をもって自分はスコットランド人だと自己主張するのか?

日本人って何だ?

手掛かりとして、もっと身近なところで、例えば日本人って何だ?という問いを考えてみよう。日本人であることの条件というと、

  1. 国籍が日本である
  2. 両親が日本人である
  3. 日本生まれである
  4. 日本育ちである

というところだろうか。ほとんどの日本人はこれを全て満たし、どれか欠けていると「変わった日本人」と呼ばれるようになる。

法律の求める唯一の条件は1番目のもので、「日本国籍=日本人」でじゅうぶんなはずだし、たしかにほとんどの場合これで片づくのだが、これだけで答えになるかというと、そう簡単にいかない。日本国籍なんてものは親さえ日本人なら、外国生まれ・外国育ちで日本語なんか話せませんという人でも取れる。逆に私は日本国籍はもうないが、周囲の人からは充分日本人だと見られている。

日本国籍=日本人にあらず?

条件2は人種的条件で、日本の法律だと条件3・4を満たしていても、親が日本人でないと自動的には日本国籍が与えられない。片親が日本人という人は日本にも増えているが、生まれも育ちも国籍も日本であっても、周囲はハーフだの混血だの、まるで半日本人と言わんばかりの扱いをする傾向がある。

条件3は日本ではあまり意味を持たないが、よその国では、その国で生まれればその国の国籍を与えるとしているところも多い。4番目は文化的な条件で、外国生活の長かった帰国子女が「日本人離れしてる」と持ち上げられ「日本人らしくない」とけなされ、やっぱり半日本人のように扱われるのは、日本で育つうちに身に着く思考法や態度がないからだ。

それではスコットランドは

スコットランドに戻って同じ条件を当てはめてみよう。

  1. 国籍がスコットランド——というのは無理だ。スコットランドは「国」ではないから、法律上スコットランド人は存在しない(もちろんイングランド人の場合も同様である)。

 

  • 両親がスコットランド人である
  • スコットランド生まれである——という2つの基準は、サッカーやラグビーのスコットランド代表チームを選出する際の基準として使われている。厳密には条件2は「両親または祖父母」で、ハーフどころかスコットランド人の血が4分の1しかなくてもスコットランド人と認めるらしい。

 

これに関連して面白いエピソードがある。歌手のロッド・スチュアートはイングランドで生まれ育ったのだが、祖父がスコットランド人とかで、本人はなぜかスコットランドが大好き。芸能人サッカーではスコットランドチームに名を連ねている。妻が妊娠した時、ロッド・スチュアートは「出産はスコットランドでさせる」と宣言した。理由は……男の子だったらスコットランドサッカーチームに入れたいから。曾祖父がスコットランド人というだけでは条件に足りないので、スコットランド生まれという条件の方を満たそうとしたのだ。

 

  • スコットランド育ちである——という条件が、私の夫やその娘の場合には当てはまるだろう。しかし一方で、前例のロッド・スチュアートのようにイングランド育ちなのに自称スコットランド人というケースもある。

 

アメリカやカナダにも、スコットランド人の子孫であることにやたらとこだわり、キルトを着てバグパイプを吹きバーンズを愛唱し、夏の休暇にはスコットランド詣でをする自称「在外スコットランド人」がずいぶんいる。そして、アメリカ訛りの観光客が「私は骨の髄までスコットランド人だ」なんて豪語するのを聞くと、スコットランド人は頭ではなんだか納得できなくてもおせじを言われたようでうれしくなり、両手を挙げて歓迎してしまう。

結局は気持ちの問題

結局、スコットランド人の条件なんてものは何とも曖昧であり、気持ちの問題というところに帰結するようだ。そういうことなら、条件はただ二つ。

  1. 自分はスコットランド人と思っていること
  2. イングランド人なんか大っ嫌いだと言えること

本当は、スコットランド人がみんな真剣にイングランド人を憎んでいるわけではない。私の夫にしても、一度はイングランド人と結婚しているのだから、それほど嫌いなはずはない。親友の中にもスコットランド人、アイルランド人、アメリカ人等に混じって何人ものイングランド人がいるし、母親の出身地であるニューカッスルや周辺地域も大好きだ。その点を追及すると本人も、「イングランド人個人個人を全員無条件に嫌いだと言っているのではない」と認める。

スコットランド人の中にだって嫌な奴はいくらでもいるし、イングランド人にもいい人はたくさんいる。それでもそういう理性的な態度などかなぐり捨てて「イングランド人なんか大っ嫌いだ」と言ってしまえること、というのがスコットランド人の踏み絵と言えよう。

F1に見るスコットランド人の屈折

スコットランド人のアイデンティティというのはとても相対的なものなのだ。具体例として、F1レーシングを挙げたい。ナイジェル・マンセルがイギリスを代表するレーサーだった頃、スコットランドの車好きたちはこぞってマンセルを応援した。そこへ大型新人デーモン・ヒルが彗星のごとく現れたときも、マンセルとヒルの夢のチームを文句もなく応援した。「イギリス対その他の外国」でよかったのだ。

ところが、デイヴィッド・クルタードというレーサーが登場して事態は急変した。マンセルとヒルがイングランド人であるのに対し、クルタードはスコットランド国旗をデザインしたヘルメットをかぶってレースするスコットランド人だ。するととたんに、昨日までのヒーローたちは一転して敵になってしまったのである。

チームがマンセルとクルタードのどちらを選ぶかでもめた時には、スコットランド人はみな新人で経験の浅いクルタードに味方した。また、あるレースでは、ヒルに総合優勝のチャンスがあるというので、レースをリードしていたクルタードがチーム命令でヒルに道を譲らなくてはならなかった。このシーンがテレビに映ると、スコットランド全国で怒号の嵐が吹き荒れた。

呉越同舟、張り合いの歴史

よく「日本とイギリスは島国同士で発想が似ている」なんて言う人がいるが、スコットランド人にしてみればこれは大きな間違いだ。スコットランド人はせまい島の上で好戦的な強国イングランドと顔をつき合わせて暮らす呉越同舟の歴史を歩んだ。海に囲まれて安全なんてのんきなことは言っていられない。気をゆるめたらすぐに飲み込まれて消える運命にある。

日本人やアメリカ人はよくイングランド(England)とイギリス(Britain)を混同してしまってスコットランド人のひんしゅくを買うが、”England”イコール”Britain”という思い込みはじつはイングランド人の中にもある。イングランド人は放っておくとすぐに、Britainの中にはイングランドだけでなくスコットランド(やウェールズ)も存在しているという事実を忘れてしまう。

スコットランド人にとって民族のアイデンティティとは、イングランドと張り合うことでのみ守ることができるものなのだ。だから、「自分はスコットランド人と思っていること」と「イングランド人なんか大っ嫌いだと言えること」という二つの条件は、実は同じコインの表と裏なのである。イングランド人がイングランド人であることをやめない限り、スコットランド人がスコットランド人というアイデンティティへのこだわりを捨てることはないだろう。

大修館書店『英語教育』誌1996年6月号掲載の文に加筆。)

©杉本優 許可なく転載不可

余談:

2002年のサッカーワールドカップを前に、日本ではフーリガン(粗暴なサッカーファン)対策をどうするか、頭を抱えていると聞きます。中でも最悪に評判が悪いのはイングランドサポーターで、ヨーロッパの大会でもさんざんに暴れまくってくれましたが、一方「タータン・アーミー」の通称を持つスコットランドファンは、陽気でフレンドリーで面白いと、ヨーロッパ各国でも人気者です。

ところが、実は1960年代後半から70年代初めにかけて、スコットランドファンは今のイングランドと同じくらい悪評が高かったのです。それがイングランドのフーリガンが暴れ始めたのとちょうど同じ頃から沈静化し、今ではすっかり優等生に。スコットランドファンがフレンドリーさを強調してお行儀良く振舞っているのは、イングランド人の粗暴ぶりをいっそう際立たせて優越感にひたるためだ、という意地の悪い説明は、実はかなり真実をついているようです。やっぱり屈折しているんだなあと納得。(2002年加筆)


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