ふだん着のスコットランド 5章 6

注記:

  • 以下の文章は、大修館書店『英語教育』誌に1995年1月から途中休みもはさんで1998年まで連載したエッセイシリーズ「ふだん着のスコットランド」1998年1月号掲載回をもとに、2002年に加筆したものです。掲載されてから長年が経過しているエッセイなので、特に時事・流行などに関する内容は古くなっており、現在の状況とはかなり違っている場合もありますが、連載当時の内容そのままにしてありますのであらかじめご了承ください。
  • 時事的な話題についてはブログの「スコットランドニュース」などで随時取り上げていますので、そちらも合わせてお読みください。
  • 文中に出てくる「夫」は当時の夫で、現在の夫とは全く関係がありませんので誤解なきようお願いします。

 


5章 スコットランド人って何だ?

6. 自治議会と2人の女性

1979年の敗者復活戦

1997年9月の住民投票(referendum、「国民投票」と同じ単語だが、イギリス全国ではなくスコットランド住民だけが投票したので、日本では「住民投票」と報道したようだ)で、スコットランド自治議会の設立が決まった。議場の立地選択にはじまって、選挙方法、議員候補選びからイギリス議会との裁量権の切りわけまで、何もかも初めてとあって準備段階から問題が続々と出てきているが、1999年には第1回選挙が行われ、議会の活動が始まる計画だという(注:スコットランド議会の話は次項の『それから』で)。

 

「ふだん着のスコットランド」を標榜しながら住民投票だの自治議会だのと、ちっともふだんの話じゃないじゃないかと言われると困ってしまうのだが、スコットランド人にとって自治や独立の問題はごく日常的な話題だ。というのも、自治議会構想は20年も前からスコットランド政治の重要な争点だったのであり、多くの(30代後半以上の)スコットランド人にとって、1997年の住民投票はいわば「1979年の敗者復活戦」だったのである。

 

1979年も、スコットランド自治議会の是非を問う住民投票が実施された年である。そのときも結果は自治支持票数が不支持を上回ったのだが、可決条件として「全有権者の40%の支持を得ること」というきびしい但し書きがついていたため、議会設立には至らなかった。住民投票を提議した労働党政府は、この敗北の結果不信任動議にさらされ、政権から追い落とされた。そして、それに続いた総選挙で誕生したのが、自治反対勢力のリーダーであるマーガレット・サッチャーの保守党政権だった。

 

自治議会成立はサッチャーさんのおかげ

皮肉なことに、2度目の住民投票でスコットランド自治議会が圧倒的な支持を得たのは、3期続いたサッチャー政権のおかげだったと言ってよい。前述のとおりスコットランド一のきらわれ者であるサッチャーが不人気な政策を次々と打ち出しながら再選を重ねるうちに、スコットランドの世論は「イングランドのおかげであんな鬼婆首相を押しつけられる。やはり連中とたもとをわかつしかない」という方向にぐんぐん傾き、一度は衰えていた自治要求の声がふたたび高まったのだ。

 

私が留学した1988~89年は、いったん落ち込んだ独立運動がちょうど盛り返し始めた時期だった。それまで労働党は自治問題に対してあいまいな態度をとっていたが、独立派の勢いに危機感を抱き、自治支持をはっきりと表明するようになった。同じく自治を求める自由民主党とともに草の根の自治運動をも取り込んで、スコットランド憲政会議(Constitutional Convention)という超党派組織を設立、自治の方針を真剣に模索し始めたのもこの時期だ。今回住民投票にかけられた自治議会は、この会議の案をベースにしたものである。

 

住民投票キャンペーンは盛り上がらず

自治派の勝利が本当に決まったのが5月の総選挙だったことは前述した。だから、総選挙のドラマに比べると、肝心の住民投票の方はあっけないくらいだった。何しろ大方の有権者の心は5月に決まっていたのだから、あとは「まだ決めていない」層の掘り起こしと、同時に票決される課税権の問題を中心にキャンペーンを張るくらいしかできることがなかったのだ。

 

しかし投票日が9月11日と決まっても、保守党の反自治運動は一向に盛り上がらない。なにしろ活動を支える地元議員が1人もいなくなってしまったのだからしかたがない。イングランド人ばかりの内閣がキャンペーンにやって来ても、ほとんど効果はなかった。おまけに地元保守党員や支持者の中には、「比例代表制の自治議会ができればスコットランド保守党議員団を復活させることができる。そもそ自治反対を訴えたおかげで議席ゼロになったのだから、ここは方向転換した方がいいのでは」なんて考える人がけっこういたのだから、気勢が上がるはずもない。

 

賛成派の方はというと、こちらも大した宣伝戦はやらなかった。やる必要すらなかったというのが正しい。実は自治議会支持派にとって、運動成功の鍵はSNP(Scottish National Party、スコットランド民族党)にかかっていた。議席数ではふるわなかったとはいえ、得票数2位の党である。スコットランド独立を綱領とする民族党が「中途半端な自治よりは現状維持の方がまだましだ」と反対勢力についていたら、事態は変わっていたかもしれない。ふだんから人気1位の労働党との差異化をねらって反労働党の態度をとることが多い党だから、反対に回る可能性は充分にあった。

 

SNPの自治支持でマスコミ報道は賛成一色

しかし一方で、SNPは以前にも保守党と手を組んだことがあり、その結果保守党への反感が強いスコットランド有権者にそっぽを向かれた苦い経験がある。なかなか微妙な立場にあったわけだ。逡巡の結果、民族党は「自治が独立への第1歩になる」と表明して賛成派に回った。

 

キャンペーンの報道も自治支持派を大いに助けた。スコットランドのマスコミは、地元タブロイド紙である「デイリー・レコード」の購読者数がずば抜けて多く、「サン」のスコットランド版がそれに続く。

「デイリー・レコード」は昔から根強い労働党支持紙で、当然賛成キャンペーンを張った。「サン」はイングランドでは保守党寄りだが、スコットランドでは保守党系の新聞は見向きもされないので、スコットランド版「サン」はSNPを支持している。従ってこちらも賛成運動の陣営に入ってしまった。

 

投票日を「運命の日」と呼び、映画「ブレイブハート」を引き合いに出して「自由のために1票を」と呼びかけ、「有名人のだれそれも自治に賛成」と大見出しをかかげた(俳優ショーン・コネリーもその1人だった)。「自治議会に反対するのは売国奴」とでも言わんばかりの紙面キャンペーンが展開されて、あまり露骨な愛国調がかえってマイナスになるのではと賛成派政党が心配し始めたほどだった。

 

ダイアナ妃の死でキャンペーン中断

新聞の熱狂はともかくとして、政党によるキャンペーンがやっと盛り上がりそうな気配を見せた8月最後の週末、突然事態が急転した。ダイアナ元皇太子妃の悲劇的な事故死である。

元がつくとはいえ王室のメンバー、それも絶大な人気を誇ったダイアナが、カメラマンに追いかけ回されたあげく交通事故で死亡というショッキングな結末に、テレビ・ラジオはこのニュース一色に塗りかえられ、人々はたむけの花を手にエディンバラのホリルード宮殿や各地の教会にむかい、政治は完全にストップしてしまった。自治議会論争も同様で、両陣営とも葬儀の日まではキャンペーンを停止すると発表した。

 

ダイアナの葬儀は翌土曜日におこなわれた。その日には国中が店を閉め、ロンドンに駆けつけ、あるいはテレビ中継を見守った(たまたまその日に引っ越しを計画していたわが家はおかげでずいぶん不便を強いられることになったが、それはまた別の話)。

 

葬儀はさっさと済ませてくれ

死亡から葬儀まで1週間足らず、事実上の国葬にしてはずいぶん手ぎわがよくて、「ダイアナの死は王室の指示で諜報部がしくんだもの」という謀略説に油をそそぐことになったが、超特急で葬儀をすませた背景にはスコットランドのキャンペーンの問題があったらしい。

 

葬儀があまり遅くなるようだとキャンペーンを行う時間がなくなってしまう。葬儀と投票日がかち合うなんて事態はもってのほかだし、国の憲政にかかわる大事な投票なのだから、葬儀が終わってふと気がついたら投票日というのも困る。

投票日を遅らせるという選択肢もあるが、そのためには国会を開いて再決議しなければならない。しかし服喪期間に国会を開くのはかえって不謹慎だし、葬儀後では時間が足りない。

これはやはりぜひとも葬儀の方をできるだけさっさと終わらせていただかなくては……という事情があったようだ。

 

反対派の大ばくち

そういうわけで、葬儀の終わった翌日から自治キャンペーンが再開した。ダイアナの死で得をしたのは、最初から優位に立っていた自治支持派である。他方、せっかくキャンペーンが軌道に乗り、多少の効果があらわれ始めたかと思った矢先に服喪のためのキャンペーン自粛を強いられた反対派にしてみれば、イギリス統合の要であるはずの王族の都合が不利に働き、腹立たしいことこの上ない。喪が解けてみれば投票までほんの数日が残るだけ、事態は非常に危うくなっていた。ここで一発大ばくちを打たねば奇跡の逆転はまず無理だ。

 

せっぱ詰まった保守党は頭を絞ったあげく、なにを血迷ったのかとんでもない人物をキャンペーンみこしに引っ張り出した。サッチャー元首相である。

誰の発案だったのか、あるいはサッチャーさん自身が「私が出ましょう」と名乗りを上げたのか、そのあたりの事情は知る由もない。ともあれ彼女はスコットランドに乗り込み、老いたりとはいえ鉄の首相時代から少しも衰えぬ舌鋒をふるって、連合王国礼讃をぶち上げた。

 

演説壇上のサッチャーさんの姿をテレビで見たスコットランド人の胸に、80年代の悪夢がまざまざとよみがえった。イングランドといっしょに政治を続けていると、サッチャーのような人物がふたたび政権につくかもしれない。いや、年は重ねても元気旺盛な彼女が返り咲きを狙いでもしたら……。この時点でだれもが心を決めたようだ。かくてスコットランド議会の200年ぶりの復活が、圧倒的な票差により決まったのだった。

スコットランド自治のキャンペーンにいちばん大きな貢献をしたのが2人のイングランド女性だったというのも皮肉な話である。

 

大修館書店『英語教育』誌1998年1月号に「スコットランド議会と二人の女性」の題で掲載した文に一部加筆。)

©杉本優 許可なく転載不可


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